初めてのキス」

進展があったのは、６回目のデートでカラオケに行った時だ。渋谷のカラオケの個室で、ハニートーストとパスタを食べながら、お互いの好きな歌を歌った。１曲目、志保さんはＢＵＭＰＯＦＣＨＩＣＫＥＮの『アルエ』を歌った。「この『アルエ』って、誰だか知ってます？」「エヴァの綾波レイでしょ？我々の世代では常識ですよ〜」と、歌を通して会話も弾んだ。意外にもアニソンが好きな志保さんは、立て続けに『蒼穹のファフナー』と『創聖のアクエリオン』の主題歌を披露。二人きりの個室の中、志保さんの「アクエリオンって、合体して気持ちいい〜！みたいなアニメですよね」という言葉が、どことなく色っぽく感じる。正一さんは大学時代に好きだったアニメ『るろうに剣心』の主題歌『１／２』（川本真琴）を歌いたかったが、45歳の中年男がカラオケで歌う歌ではないよな……と躊躇していた。すると、それに気づいた志保さんが「私たち二人しかいないんですから、歌っちゃえばいいじゃないですか〜。神様は何も禁止なんかしてないですよ」と促してきた。そんな志保さんの気遣いに押されて、川本真琴をはじめ、ＪＵＤＹＡＮＤＭＡＲＹやaikoなど、正一さんは自分の青春時代に好きだった女性ボーカルの曲を、気兼ねなく歌うことができた。終盤、志保さんは大塚愛の『黒毛和牛上塩タン焼６８０円』を歌った。恋する女性の気持ちを、網の上で焼かれる牛肉になぞらえたコミカルな曲である。だぁいすきよあなたとひとつになれるのならこんな幸せはないわ……お味はいかが？「この歌をカラオケで歌うと、誘っていると思われるんですよ〜」と志保さんさんは微笑んだ。自分のことを誘っているのだろうか。確かに、半年もデートを重ねて手すらつないでいないというのは、大人の交際としていかがなものだろうか。関係性も、発酵させすぎると腐敗してしまうのではないだろうか。女性から見れば、男性が全く手を出してこない、というのは、自分に魅力がないからだと考えてしまうのではないだろうか。でも、慎重になりすぎるあまり、志保さんとの距離を詰めるきっかけを見失ってしまったような気もする。正一さんは悩んだ。モヤモヤしているうちに、カラオケの終了時刻が近づいてきた。お互いの選曲を歌い終わった後、しばしの沈黙が訪れた。何かしら距離を詰めるようなアクションを起こしたいけれども、もう残り時間もないので、次回のデートの日程を決めよう……と思っていた時、志保さんが恥ずかしそうに微笑みながら、正一さんの目を見つめた。「あの……下心があるんですけど……お伝えしてもいいですか？」「下心」という言葉を聞いて、正一さんは動揺した。もしかして、毎回のデートの謝礼を値上げしてほしい、という要求だろうか。だとしたら、どう答えればいいのだろうか。志保さんと会うのは楽しいが、デートの謝礼が毎回５万とかになると、正直ちょっと厳しい。でもそれをケチると、器の小さい男だと思われるかもしれない……。頭の中でよからぬ想像が拡がり、正一さんは焦った。しかし志保さんの「下心」は、正一さんの意表を突くものだった。「もしナオキさんが嫌でなければ……キス、してもいいですか？」確かに、恋人同士という関係であれば、そろそろデートの終わりにキスをするような時期だと気がついた。同時に、「第四の関係」をデザインするなどと考えていながら、無意識のうちにお金のことばかり考えていた自分自身が恥ずかしくなった。「い、嫌なわけないじゃないですか！志保さんがよければ、ぜひお願いします」と、平静を装って答えた。どちらからともなくゆっくり距離を詰めて、指を絡ませた。志保さんは正一さんの両?に口づけをして、その後、目を閉じ閉じて静かに唇を重ねた。「どうでした……？」黒い瞳を潤ませて、志保さんが耳元でささやいた。「む、胸がいっぱいです……」正一さんは半ば放心状態になりながら、返答した。45年間生きてきて、キスだけでこんなにドキドキするんだ……と、中学生の頃のような気分になった。